真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺 川崎大師

メニュー

English

境内碑蹟めぐり

1

植木供養之碑

昭和51年〈1976〉11月

説明を見る

「山高きが故に貴からず樹あるをもって貴しとなす云々」(実語教、伝、弘法大師作)山川草木、或いは一木一草などというが、この緑の木々の持つ力は広大である。木材としての用途は勿論、治山治水、大気の浄化などその恩恵を人類は充分に戴いているのである。この碑が当山に建てられたのも仏教の精神にかなうからである。
「古代よりよろづ枯死せし樹乃精を御山に集い皆で弔ふ」の歌が刻まれている。建碑は神奈川県造園業組合川崎支部。

2

六世綱大夫の碑

明治16年〈1883〉9月24日

説明を見る

この碑は、浄瑠璃、義太夫を極めた六世綱大夫の辞世の句「ものいはで 立出でるなり 秋のくれ」が刻まれた碑石である。題字は八世其角堂。

3

浅間大神碑

大正10年〈1921〉

説明を見る

木花開耶姫命を祀る浅間神社の碑で、大正8年(1919)大師富士登山会が結成されて、その2年後、大正10年(1921)に建碑されたものである。

4

青木正太郎翁之碑

昭和6年〈1931〉6月

説明を見る

「梅に名を得し大森をすぐれば早も川崎の 大師河原は程近し 急げや電気の道すぐに」(鉄道唱歌 四番)
明治31年(1898)2月25日、現在の京浜急行電鉄株式会社の前身である「大師電気鉄道株式会社」が創立された。初営業は、翌明治32年1月21日の初大師の日であった。電車としては、京都、名古屋についで日本で三番目であった。春には、桜の花のトンネルとなる軌道を小さな電車は並等5銭、上等10銭で走った。
青木正太郎氏は、明治の末年から永く同社の社長をつとめ、社運の発展に尽力された。

5

鶴澤勝造碑

大正5年〈1916〉10月

説明を見る

室町の末期、びわなどを用いて広く民衆に喜ばれた新音曲の中に、「浄瑠璃姫物語」というのがあって、それが非常に好評だったので、その種一連の語り物を浄瑠璃と呼ぶようになったといわれる。この碑は、3代目鶴澤勝造の碑で、彼は天保年中、浄瑠璃三味線の名手といわれた勝造の名をついだ人である。本名は金田茂吉といい、そのあと豊沢一造と名のり、ついに勝造と名のった。

6

種梨遺功碑

大正8年〈1919〉3月

説明を見る

種梨遺功碑は、長十郎梨(ちょうじゅうろうなし)の発見者である當麻辰次郎氏(1826~1905)の功績を称えた碑で、大正8(1919)年に大本坊前の植え込みに建碑された。
かつて旧橘樹郡大師河原村は果実生産が盛んであったが、代表的産物に長十郎という梨があった。大師河原村出来野(現在の川崎区日の出)の當麻氏が実生から育成したものが、明治26年(1893)に実をつけたもので、當麻氏の屋号から名付けられた。この品種は、木の寿命が長く病害にも強い、収量が多い等の特徴があり、栽培面積が広がっていった。建碑当時、全国の梨栽培面積の6割は長十郎であった。大消費地の東京、横浜をひかえて盛んに作られる商品価値のある梨であった。
その後一時期、長十郎梨は衰退したが、近年発祥の地に復活させる運動が起こり、苗木の存続が図られている。

7

力石

明治時代

説明を見る

昔、境内で力くらべに使われた石で、左の2つは、「さし石」といって頭上にさし上げるもの。左端のものは36貫(135キログラム)。右の3つは「おったて石」といい、起こして真っ直ぐにたてるもので、右から3番目のものは、銘を雲龍石といい100貫(375キログラム)もある。これができたものは一人前とみなされたという。

8

征清陣兦軍人招魂碑

明治29年〈1896〉

説明を見る

この碑は明治27年(1894)の日清戦争で戦死した将兵の招魂の慰霊塔で、橘郡(現在の川崎市と横浜市の一部)出身者の名が刻まれている。


 

ページの先頭へ