略縁起

今を去る880余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。
兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、日夜厄除けの祈願をつづけていました。
ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、 海上に放ちしことあり。以来未(いま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。
兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。
それは、大師の尊いお像でした。
兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。
そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。
これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。
法灯をかかげて、悠久ここに880余年、御本尊のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場として、川崎大師平間寺は、今、十方信徒の心からなる 帰依をあつめています。