境内碑蹟めぐり

境内マップ

1 六字名号碑

寛永5年〈1628〉3月21日

六字名号碑とは、阿弥陀如来への信仰をあらわす「南無阿弥陀仏」の六字名号を石などに刻んだもので、一般的には、願いが成就した時の記念碑などとして建てられた。
川崎大師の六字名号碑は、江戸時代初期の寛永年間、一文不通の人が夢の中で弘法大師に六字名号の書き方を教わり、翌朝、川崎大師参詣の途中で拾った筆によって見事な六字名号を書いたことに由来する。その大きさは、高さ175センチメートル、幅61センチメートル、厚さ21センチメートル。大正12年(1923)の関東大震災により倒壊したが、その後復元され、現在は、不動堂横の中書院(茶室)の中庭に建碑されている。近世の名号碑としては、全国的にも古いもので、川崎市内では最も古く、昭和63年(1988)に川崎市重要郷土資料に指定された。
銘文(正面)
 寛永五年
南無阿弥陁佛
 三月廿一日 雪翁月盛居士(花押)
(裏面)
武州江戸京橋紀伊国屋桜井文太夫正月二日御霊夢所六郷大橋
蒙大師御筆此名号法名雪翁月盛居士万人染愚筆為供養也

2 茶筅塚

平成2年〈1990〉10月7日

茶筅塚は、茶道裏千家淡交会川崎支部が、平成3年(1991)の千利休居士四百年遠忌を記念して建立したもので、平成2年(1990)に第44世隆天貫首大導師のもと茶筅塚開眼法要並びに茶筅供養が執行された。この塚の台座中には寄進者芳名録収納筒、茶筅2本(1本は平間寺、1本は淡交会川崎支部)が埋納されている。

3 忠魂碑

明治42年〈1909〉1月

乃木希典は、嘉永2年(1849)に生まれ、明治維新後、新政府の陸軍に入った。日露戦争におけるニ〇三高地(旅順)の激戦で、特に知られる。明治天皇御大葬の日、大正元年(1912)に殉死。
碑の題字は希典の書である。主に大師河原村出征軍人の戦没者が祀られている

4 消防紀念碑

明治20年〈1887〉8月

江戸時代、消防組織は定火消、大名火消、町火消の3つがあり、それぞれに分担されていた。
この中の町火消は、大岡忠相によって組織化されたという。各々の組は、いろはの字を振り当てられていた。それにたずさわる人々を「とび」と呼んだ。碑には、そうした伝統を後世に伝えるためにその経緯が記されている。いろは歌を詠まれた弘法大師をまつる寺ということで当山に建碑されたものである。

5 古賀政男氏胸像

昭和59年〈1984〉2月21日

古賀メロディーは、人生の哀歓をこれ以上にはあらわせないのではないかと思うほど、胸を打つものがある。古賀政男氏は当山への信仰がことのほか深く、昭和52年3月21日川崎大師讃歌を作曲奉納された。その翌年の7月25日古賀氏は逝去されたが、この胸像はその七回忌にあたり弘法大師1150年御遠忌並びに吉例大開帳奉修の記念事業として建立されたもので、御影石の台座の上に高さ80センチのブロンズ製の氏の胸像が安置されている。
台座の正面には、氏直筆の川崎大師讃歌の譜面、右側面には第44世隆天貫首の「古賀政男先生を偲びて」と、建立趣旨の碑文が刻まれている。

6 しょうづかの婆

寛文11年〈1671〉3月

「しょうづか」とは、三途の川すなわち『十王経』にある葬頭河の訛であるとされる。江戸時代には、どういうわけか歯の悪い人の信仰を集めるようになり、痛みを治してほしいと願う手紙が多く寄せられた。近年はそのような手紙は届かなくなったが、美貌を願うご信徒が多く訪れ、静かな人気を集める。第二次世界大戦までは木造の閻魔王もいっしょに祀られていた。